戦争ごっこ

                    ヘディン・著
                    笛地静恵・訳

----------------------------------

5・天国と地獄

 グレッグは、ついに戻ってこなかった。

 デヴィッドにとっては意外ではなかった。本当に生きて帰ってきたら、びっくりしていたことだろう。彼にとっては、あの青い足の事件の記憶は、あまりも強烈だった。無事で助かっているとは、とても思えなかった。

 ビリーの反応から、彼の考え方が正しいことが納得できていた。 彼はグレッグの件については、あえて触れないように心に決めていた。この場の主導権を握るつもりだった。

「さて、諸君。我々にも選択の時が来た。蟻に足を蹴っ飛ばされたとして、気が付くような敏感な人間は、果たしているだろうか?彼女が、そうでないことは明白だ。何か違った方法が求められているということだ」

 
ずどおおおおん!!!

 あのビーチ=サンダルが落下する音が、彼らの背後から轟いて来た。彼女は、自分の靴で無邪気に遊んでいるのだった。

「畜生!まず、最初にすべきことは、この場所から撤退することだな。さもないと、あいつに踏み潰されてしまうだろう。敵さんは、あの青い怪獣と遊ぶつもりでいるようだ」

 デヴィッドは先頭に立って、逃亡を開始した。ジェスとトムにも、他には何もいいアイデアが浮かばなかった。それで、彼の後に続いた。彼らとしては、陸上競技の二百メートルの障害物競争を、全力で疾走したような気分だった。草の幹の影に飛び込んでいた。身を隠していた。

 「まあ、いいだろう。これで彼女の、危険な遊びの圏外には出たと思う。俺達には、二つの道が残されている。第一案。彼女の注意を引く。ビルや他の者達も、助けてもらうように頼む。

 第二案。ビーチ=サンダルにヒッチ・ハイクとしゃれこむ。家に連れ帰ってもらう。注目してもらう方法を考える」

「ハンクとアルとビルを、置いてはいけない」
 ジェスが答えた。「第一案しかない」

「そうすると、ジェス。次の点が問題になる。如何にして、注目してもらうかだ?たとえば、如何にして彼女をくすぐるか?少なくとも、草の葉の先端が触れるぐらいの刺激が必要だ。そこまでのことが可能ならば、彼女は俺達を発見できて、虫けらだと思われないで済むだろうがな」

「鼻の上に登ってやったらどうかな?そうすりゃ気付くと思うんだ!」とトム。

「いや、無理だ。あんなところまで、どうやって登るつもりだ。トム?」
「まず頭の所まで行って、髪の毛にしがみつく」
「なるほど……。もし、彼女が動いたら?」
「動かない方に、賭けるしかない」
「あんな高さまで登れるとは、とても思えないが……」

「ともあれ、僕は挑戦してみるよ。君たち二人は、何をしようと自由さ」
 トムは立ち上がると、草のジャングルの中に消えていった。

 デヴィッドとジェスは、長い間、互いに顔を見合わせていた。

「俺は、あのサンダルの内部に隠れたらと思うんだ。あの手のゴムのビーチ=サンダルは、底のあちこちに大きな空気穴が開いている。そこに隠れることができるだろう。一度、彼女の家についてしまえば、そこでゆっくりと、注目されるための方法を考えることができる。たとえば、地面に何かの文字を書くことさえ、可能かもしれない」
 デヴィッドが、そう言った直後だった。

 ずどおおおおん!
 ずどどどおおおおんんん!!!


 長い静寂が続いた。とうとう巨人の遊びが終了した。直後に、地響きのような、いびきの轟音が続いた。 彼女が眠ったのだ。

「今だ。今しかない!」
 デヴィッドが叫んだ。彼らはビーチ=サンダルの方角に走った。

 彼女の足を発見した。しかし、今度はそこで立ち止まることはなかった。巨大な足の周囲を迂回していった。

 ビーチ=サンダルのゴムに残った、より大きな泡の痕跡を探していた。最初の二つだが、広さは申し分なかった。しかし開口部が、あまりにも大きかった。動いた時に、外に放り出される不安があった。

 幸運に恵まれていた。好適な場所を発見した。サンダルの親指の真下に近い場所にあった。地面から十五メートル程度。約束の土地のようだった。あそこまで登って中を探険してみようと決めた。

 急傾斜の壁面の道を登るのは、力比べをしているようだった。最後の六メートルは、彼女がいきなり動くのではないかという不安と、振り落とされるのではないかという恐怖の板挟みになった、心身に緊張を強いる苛酷な道程だった。

 息を激しく喘がせていた。けれども、とうとう安全な場所に潜り込むことに成功していた。内部は、理想的な泡としての完全な球体に近い形をしていた。入り口は、可能な限り小さかった。直径は、八十センチメートル程しかなかった。壁面は無数の小さな泡が爆発したようなクレーターで覆われていた。

 その奥に、なんと、もうひとつの大きな部屋が、口を開けていた。長さは三メートル。幅は一、五メートル程度だろうか。すぐに彼らは、こちらの穴に身体を滑り込ませていった。まるでローラーコースターの座席のような、柔らかい弾力を感じていた。とうとう、安全な場所に辿り着いた。彼らは、そう信じた。

         *

 トムは、一人だけで長い孤独な旅をしていた。巨人のロープのような彼女の髪の毛に登攀するためには、体力を温存しておく必要がある。顔面の鼻の山頂までは、おそらく三百メートルぐらいの高度があるだろう。

 だから、焦ることはしなかった。走らずに歩いた。残りの二人と無線機で連絡を取ろうとしたが、何の音もしなかった。予備のバッテリーに入れ替えたが変化はない。度重ねる衝撃で、壊れてしまっているようだった。

 少女の熱く日焼けした肉体の、すばらしい眺望をたっぷりと楽しむことにした。すべての美しい眺めが、ただ彼のためだけに展開されていた。どこを向いても、彼女の肉体の山脈が聳えていた。独占状態だった。

 まったく美しかった。その汗に光る肌は、あくまでも引き締まって滑らかだった。こんなに巨大なのに、皮下脂肪のたるみひとつさえ発見できなかった。

 唯一の例外が、胴体と同じような色に日焼けした、牛角型の美しい山容を持った胸元だった。青空に高く神々しく聳えていた。あの乳房は、まさに女性の誇りを象徴するだろう。自然の造形したモニュメントだった。

 歩いている間にも、上空の高い場所を、涼しい空気が愛撫するように吹き過ぎていったらしい。その刺激だけだ。彼女は、他には何もしていない。乳頭が、乳房からむくむくと自然に勃起していた。威容の全体像を、明らかに陽光に顕示していた。

 あの山頂までは、胸板からでも六十メートルほどの高度があることだろう。彼でさえ、こんな刺激的な光景を眺めては、股間に腕が動く衝動を抑えかねていた。辛うじて堪えていた。見ず知らぬ女性に対して、あまりにも失礼だと思ったのだ。

 その場所も、すでに一時間前に通過していた。
 ついに彼は肩のなだらかな曲面の壁を、迂回していた。 この瞬間から、事態は恐るべきスピードで、進行していったのである。

「ねえ、ルーシー。あたし、何だか喉が乾いちゃったわ。アイス・ティーか何かを持ってきてくれないかしら。あたしが、行っても良いんだけど、叔父さんの別荘のキッチンって、中がどうなっているのか、良く分からないのよ……」

 巨人族の頭部を支える、雄大な首の筋肉が緊張した。顔の山が動いた。彼のいる方向に、いきなり死神のような力を秘めた、毛髪の嵐が吹き荒れていた。巨人の揮う鞭のようだった。頭髪の雨が、大地に打ち付けていた。身体をそれらの一本に、半分に寸断される恐怖に地面に俯せになっていた。倒れ付していた。

 いきなり頭部が、突風を巻き起こしながら上昇していった。
 巨人女の姿は、消失していた。遠ざかる足音に伴う振動が、彼を跳ねとばし転がしていた。

         *

 デヴィッドとジェスは、恐怖に打ちのめされていた。彼ら専用の小さな外洋航行用のクルーザーの船室は、いきなり上下左右に揺さ振られていた。

 片足が地面に接触した。巨大な力を、特等席で観戦していた。本当に、氷山と衝突したという伝説のタイタニック号の船内にいるような気分だった。すべてが鳴動していた。哀れな草が、巨人のビーチ=サンダルの下で踏み潰されていく、無数の悲鳴のような声を耳にしていた。

 しかし、これは、ただ片足が、ビーチ=サンダルに滑り込んできただけの効果だった。

 次には、あの長い脚の全重量が、乗ってくることだろう。

 
巨人のルーシーが立ち上がっていた。

 次の瞬間。そんなことが、とても可能だとは思えないような、圧倒的な力のデモンストレーションを体験したのである。

 一足ごとが、血の出るような暴力的な拷問の連続だった。
 足が空中に上昇していく。アポロ11号の乗員が、ロケットで地球の引力圏を脱出するときに体感したような、凄まじいGの圧力を感じていた。ゴムの泡の床に押しつけられていた。

 ビーチ=サンダルの踵に、彼女の素足の踵が打ち付けられる。鼓膜を劈くような強烈な打撃音に、全身を震撼させられていた。

 すべてが大地に向かって下降していく。気味の悪い墜落感があった。
 サンダルが大地に設置する。踵の打撃音など、比較にならないような凄まじい轟音が轟いた。

 聴覚は麻痺していた。大脳の神経が直接に聴いていた。
 次の二秒間は、足は地面に静止していた。
 しかし、彼らの頭上の少女の肉体は前方に歩こうとしているのだ。次の歩行の準備を整えようとしていた。重心が踵から爪先へと移行していた。

 靴底の下では、芝生の世界の数えきれないほどの、有機物と無機物が、平らにされ踏み潰されていった。破壊に伴うすべての音が、彼らの鼓膜を透過して、大脳の細胞に直接に突きささっていた。破壊という主題の不協和音に満ちた恐怖の交響曲だった。

 そしてついに、彼女の爪先に、女巨人の肉体を前方に進ませるために、全体重がかかる瞬間が来た。

 ビーチ=サンダルは、途方もない重量に圧迫され変形していった。
 すべての泡は、内部から空気を噴出して絶叫していた。デヴィッドとジェスにも内部にいては、泡ごと圧縮されて命がないことが分かった。

 ほんの何分か前には、ここを世界でいちばん安全な場所と考えていたのではなかったか?すでに圧力は、彼らの肺に内蔵されていた、わずかな空気さえ放出させていた。頭部は、両膝の間に押さえ込まれていた。

 しかし、それも、いきなり終わっていた。
 また上方に跳ね飛ばされていた。次の最初の二歩の間は、彼らも、自分たちのアイデアが、なんとか命を助けてくれたのかと考えていた。

 上昇と下降。ドアを開く音。そして静止。閉まる音。上昇と下降。
 そして、再びドアが開く音。
 ビーチ=サンダルが急停止した。

 それが、ジェスの運命を決定した。彼は何とか、この泡から出ようとして、直径八十センチメートルの球体の方に、上半身を乗り出したところだった。開口部から、光速度の弾丸のように発射されてしまった。

 キッチンの固いタイルの床に、背中から叩きつけられていた。どこかの骨が折れた感触があった。

 ほんの一瞬だが、これで彼は、あのビーチ=サンダルに乗車した高価な代金を払い終わったと錯覚した。

 ルーシーの足の動きによって、自分が、その進路から遥か彼方に放り出されたように感じたのである。

 しかし、それは、誤りだった。まだ彼女の進路の正面にいたのである。



 一秒と半分の時間、彼には、頭上のヌードのボディの完璧な美しさを鑑賞していた。笑みを浮かべるゆとりがあった。自分の股間に、タッチしようとさえしたのだ。ビーチ=サンダルの底が、彼の上空の視界を青暗く覆い隠した。暗黒が訪れた。

 
ずどおおおおおおん。

 雷鳴は、踵が着地した音。片手はズボンの中に入ったままだった。もう片方の手は、ビーチを押し戻そうとしてした。虚しく靴底を撫でていた。ぐちゃっ。彼の身体が潰れた音。

 ジェスから見て、上空に五メートル。右に十メートルの位置。デヴィッドは、ジェスの最期の音を痺れた耳で聴こうとしていた。

 しかし、雷鳴と衝突音が混合していた。濛々とした別荘の室内の埃とゴミが空気に渦巻いていた。微かな音を聞き分けるなど、不可能なことだった。

 五秒間。デヴィッドは、静穏な時間を過ごした。冷蔵庫のドアが開く音。ガラスの瓶が触れ合う音がした。

 すべてが、順調に推移したのかもしれない。
 もしも、小柄なルーシーが、食器棚の上の方の棚に置いてあった、お気にいりの柄のマグ・カップを取ろうとしなければ。
 ルーシーは、カップの把手を掴むために爪先立ちになった。

 彼女にとっては、別にどうということのない行為だった。しかし、デヴィッドにとっては、それは破滅を意味した。

 何の前兆もなかった。彼専用の小さな牢獄が、圧縮されていった。また荒々しい力で、頭部が両膝の間に押しこめられていた。それから、もう一回、激しい振動を伴って、強い圧力が加えられていった。

 肩までが足の間にあった。両腕は、ここまでの過程で、すでに砕かれていた。両肺に残っていた最期の空気を使って、断末魔の絶望的な悲鳴を上げていた。突然に、圧力が止んだ。ほんの一秒間。デヴィッドは、両腕が牢獄の青い壁面に、ざくざくの固まりになって磔の状態になっている光景を見た。

 圧力が回帰した。
 たぶん、以前のものよりも強大になって。
 ニ番目のマグ・カップは、前のものよりも棚の奥の方にあった。ルーシーは、ビーチ=サンダルの左足を床から持ち上げていた。右足の爪先だけで、立っていた。

 デヴィッドの顔は、股間に埋もれた状態で砕けた。両脚が砕ける音を聴く前に、背骨が折れていた。それが彼を、苦痛から解放してくれていた。ボキン!自分の額が、睾丸を潰すのを感じていた。視界が赤く染まった。最期に微かな音を聴いたような気がした。カシャリ。頭蓋骨が割れる音だった。

                 *

 ところで、ルーシーはと言えば、二つのマグ・カップを割ることもなく無事に取り出していた。冷たいアイス・ティーで満たした。芝生の庭に戻る全裸の美少女の口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。

 「ジャスミンと、庭の芝生で日光浴をしようと思いついて、本当に良かったわ」

        ***

 「みんな、良く聞いてね。これが最後のチャンスよ。ルーシーに、あなたたちの、存在を知られちゃ、絶対に駄目!彼女は、男にとっては名前の通り、悪魔ルシファーよ。なにしろ男って生き物が、大嫌いなの。分かった瞬間。叩き潰されるか。踏み潰されるか。どっちかよ」

 トムは、この言葉を聴いた瞬間には、パニックに陥っていた。

 「だから、急いで隠れてちょうだい。あたしは、自分の口紅を、右足のミュールの脇に置くことにするわ。偶然に出ちゃったようにしておく。それに、よじ登ってちょうだい。たぶん、油脂の力で、自然に表面に張りついていられると思うの。後で。救助してあげる。そんなに、時間はないと思う。ルーシーが、あと一時間も、炎天下で身体を灼かれながら、我慢して寝ているとは思えない。そろそろ、帰ろうとするに違いないから!」

 そうは言っても、あの口紅までは、あまりにも遠かった。ともあれ走り出していた。

 眼前に広がっているのは、ルーシーが巨大な身体を横たえていたために、押しつぶされて絡まった草のカオスだった。その場所は迂回しなければならなかった。

 彼女が戻って来た時に、彼を踏み潰してしまうのではないか。そんな恐怖もあった。

 もし彼女が、以前の位置よりも、ほんのわずか身体を上に持ち上げたとする。彼は彼女の頭部の下で、埋葬されてしまうだろう。

 彼女が帰ってきた。足音を伴う衝撃で、地面に押し倒されていた。為す術もなく、転がっていた。彼の今までの生涯でも、もっと恐怖に満ちた時間だった。

 しかし、全裸の女巨人は寝転ぶ事もなく、ただ芝生に座り込んでいた。彼とは、かなりの距離を取った場所だった。
 楽しい午後のお茶の時間になった。

                 *

 トムは命懸けで時間との戦いをしていた。あの口紅までは、どれぐらいの距離があるのだろうか?二キロメートルを切っているだろうか?よく分からなかった。ただ緑色の草の世界の視野の中では、深紅の口紅と、金色と黒の容器の色が、ひどく鮮烈に輝いて見えていた。

                 *

 「ねえ、ジャスミン、いったい、どうしちゃったっていうの?わたし、あなたの瞳が、そんなにトロンとしているのを、初めて見たわ。何か、素敵な夢でも見たの?」

「ええ、ルーシー!あたし、あなたが、こんなことに気が付く、繊細な神経を持っていたなんて!初めて知ったわ!」

 「失礼しちゃうわ、ジャスミン!わたしをだれだと思ってるの?この感性が、世界中の、傲慢で、利己的で、横柄な、男どもから、わたしの身を守ってくれているのよ!」

「でも、ルーシー、今のあなたからは、何だか今までに見えなかったような色が、輝いているのが見えるわ。とても優しい色よ。いったいあなたの心の、本当の色合いって何なのかしら?」

「青よ、わたしのビーチ=サンダルを見てちょうだい!この青よ……」

 くだらない。いつもの女たちの内容のないおしゃべりだった。トムは、考えていた。でも、これは、もう一人の少女が、彼らのために必死の時間稼ぎをしてくれている証拠だろう。少なくとも、このおしゃべりが続いている間は、彼女たちが、この場所から立ち去る心配はないわけだ。そうだろ?

 彼は、走った。さらに走った。時も走るように、過ぎていった。すぐ近くにある、二人の少女の美しい肉体を見ることも忘れていた。ゴールは、あの口紅のみだった。生存のためのゴールだった。

「あたしには、いつも、あなたが、男の子たちに、つらくあたる理由が分からないのよ?ルーシー?」

「ねえ、ジャスミン。それは、単純な人生観の問題なのよ。あなたも、美人だし、セクシーだわ。わたしも、あなたと同じぐらいには、そうだと思うわ。でも、あなたも知っているように、男達が問題なのよ。わたしが言うのは、あのオ・ト・コどものことよ。『おい、あの脚を見ろよ!』『なあ、あのオッパイを見たかい?』『あいつの尻を叩いて来たら、ビールをいっぱいおごるぜ!』

 わたしが、ちょっとばかり男の子に厳しいとしたら、こういう輩から自分を守るためなのよ!わたしは、まだ自分のハートをとろけさせるような男性に、一人も出会っていないわ。でも、わたしは彼が、ついそこにいて、自分を待ってくれているような気がして、仕方がないのよ……」

                 *
 
「そうだ。僕は。ここにいるよ。でも、僕は別に待っているんじゃないんだ。ただ逃げようとしているだけさ」
 トムは、そう答えていた。

「あら、ジャスミン。もう、こんな時間よ。そろそろ五時になるわ。六時までには、戻らないと叱られるわ。食器洗いとか何かを、放り出して来たのを忘れていないでしょ?」

「そうね」

 トムも答えを耳にした。時が来たことを悟っていた。たぶん、あそこまでは、あと三百メートルというところか?もしかすると二百四十メートルぐらいだったかもしれないが。

 大地に暗い振動が再び生じていた。ルーシーの動きに、呼応しているということが彼にも分かった。彼女が両足をついて、立ち上がろうとしているのだった。

 次の瞬間。ルーシーの最初の一歩の振動だけで、トムは疲れた足を絡ませていた。地面に転がされていた。 一歩。また一歩。

 ルーシーが、自分の荷物を集めていた。ビキニのボトムの穴に、足を入れていた。ビキニのトップを投げ捨てた場所まで歩いていった。

 トムは立ち上がることすら諦めていた。震える大地の上で可能な限り、手足をついた俯せの状態で、この時を堪え忍んでいた。

 ルーシーが神話の世界の女神のように轟く雷鳴を伴って、彼の方に接近してくる光景を目撃した。草の根を掴んで命綱にする前に、空中に跳ねとばされていた。上空を見上げていた。青いビーチ=サンダルが、赤い夕焼けの空から下降してくる光景を眺めていた。世界が暗黒に閉ざされた。恐怖のあまり絶叫していた。

 
ずうううううんん!!

 ルーシーの青いビーチ=サンダルは、彼の尺度でも、わずか一メートル半の地面を踏み潰していった。靴の下で逃げ場を失った圧縮された空気が、側面から噴出していた。霰や雹のような土砂を伴う嵐が、トムの周囲を吹き過ぎていった。

「ジャスミン。ビキニの背中の紐を結んでくれない?」
「いいわよ!」

 彼の進路は完全に封鎖された。生存のための口紅との間には、死そのもののように強力なルーシーの足が、立ちはだかっていた。ここからだと踵まで、二百四十メートル。爪先まで百五十メートル。トムは、目測していた。迂回する体力は、彼には残されていなかった。

 頭上には、ルーシーが腰を折って屈み込んでいた。着替えを手助けする方のジャスミンは直立していた。トムは、彼女達の重量感のあるおっぱいが、頭上でずっしりと揺れる光景に魅了されていた。

 美しいヌードの巨人たちの肉体が、彼の頭上の空を独占していた。

 ジャスミンの素足が雷鳴を伴って、ルーシーの周囲を移動していた。彼は美少女たちが、あの超巨大な乳房を、ビキニのブラの中に器用にしまいこんでいく光景を、息を止めて凝視していた。

「ありがとう。ジャスミン!」
 ルーシー印の雷鳴だった。

 トムは、青いビーチ=サンダルのところまで、這うようにして進んでいった。啜り泣きながら側面に身体を凭せかけていた。

「ねえ、待ってよ。ジャスミン。あなた、口紅を、こんなところに、忘れているじゃない。ほら、ここよ!あら、それに、半分、開いているじゃない。虫が張りついちゃうわよ。馬鹿ねえ。だいじょうぶ。虫がついていても、わたしが、きれいに払っておいてあげたから!」

 トムは、ついに降参していた。彼の希望は、もうあとひとつしか残されていなかった。もう何の感情的な抑制もなかった。ただジャスミンの完璧なヌードのボディを見上げていた。揺れるように弾む乳房の光景を楽しんでいた。何の恥じらいもなく展示されている性器の割れ目があった。

 ほんの一瞬だが、もしもあの膣の内部に、潜り込むことができたとしたら、なんと楽しい体験になっただろうかと夢想していた。しかし、彼女が両脚を動かした。途端に二枚の陰唇が、攀じれながら互いに擦れ合わされていった。物凄い天変地異だった。

 そんな様子も目撃していた。現実には、何を感じる暇もなく磨り潰されるだろう。それが現実だ。悟るものがあった。生涯、最期の射精の快感を味わっていた。

                 *

 ルーシーが、バッグを地面から持ち上げるために戻ってきた。青いビーチ=サンダルが履かれた。地面から持ち上がっていった。トムは、信じられぬような幸運に恵まれてしまった。

 ルーシーが、わずかに爪先を曲げていたのだ。そのために、靴の下に引きずり込まれなかった。靴底が動いた。大量の土砂を脇に積み上げていった。堆積が崩れた。雪崩のように地表に殺到する。その上に、トムはちょうど乗せられたような状態になっていた。一瞬後、死神の履く靴は消滅していた。

 青いビキニのルーシーの後ろ姿が、片手にバッグを握り締めながら帰宅する光景を眺めていた。レモン・イエローのスーパー・ビキニ姿のジャスミンの方に視線を向けていた。

 口紅を入れたバッグのファスナーを、ゆっくりとゆっくりと閉めていた。同時に、木製のミュールの、透明なプラスティックの靴紐の間に足の指を入れていた。銀色のアンクレットが光っていた。

「心配しないで、ビリー。あたしは、あなたに、この場所で出会うことが出来て、とても幸福な気分なの。アンクレットを付けていたことに、気が付いてくれたんでしょ?愛しているわ。誰かに、元のサイズに戻してもらえるように、努力する!でも、お友達の皆さんには、ここに残ってもらわなくちゃならないみたい。助けられなかった。ごめんなさい!」

 ジャスミンにとってのささやき声が、トムの耳には、雷鳴のように轟いていた。

 
「さよなら!」


 疲れきり、身体もほとんど動かせなくなっていた。トムは女巨人に手を振って、最期の別れを告げていた。やれやれ。少なくとも一人は、恐怖の「サバイバル・ゲーム」にも生存者がいたのだ。ビリーが勝利者だった。素直に祝福していた。

 トムは木製のハイヒールの厚底靴を、不思議な気持ちで眺めていた。
 ちょっとした幸運に恵まれれば、あの青いビーチ=サンダルの底を、登ることはできただろう。でも、この滑らかなニスを塗られた木製の表面には、登山は不可能だった。もともと不可能だった無謀な登山計画を、実施することもなかっただろう。

 もしルーシーではなくてジャスミンが、彼らに近い側に横になっていたとしたら。事態は、いったいどうなっていたのだろう。もしかすると、たったそれだけのことで、全く違う方向に進展していたのかもしれないのだ。

 トムは、ジャスミンが最初の一歩を踏み出すのを、穏やかな気持ちで見つめていた。彼女の足が、自分のいる方向に急速に接近してきても、何の驚きも感じなかった。これで良いのだ。

 何の幻想も抱いてはいなかった。夜になって孤独の内に、鳥や虫や鼠に食われるよりも、美しい少女の足元で踏み潰されて死んだ方が、まだしも人間らしい最期だった。

 もし、あの木製の鋭いヒールが彼のことを踏む事なく、通り過ぎて行ってしまったとしたら。その時こそ、絶望して泣き喚くことだろう。

 右側のミュールの爪先の、プラスティックのギザギザの泥に汚れた、当て物の底を眺めていた。地面にもう慣れてしまった、特有の振動を感じていた。体重が乗った鋭いヒールの先端が、どんなに容易に柔らかい大地に深く食い込むのかを眺めていた。美少女の足の下に、今、孤独な四葉のクローバーが踏み潰されていった。

 厚底靴の木製の底が襲来した。湾曲した土踏まずの真下にいた。爪先の部分まで、たった六メートルの距離だった。彼女の途方も無い重量の下に、すべてが破壊されていった。ヒールの靴底が、彼の方に滑ってくるのを眺めていた。彼女が無意識に、方向転換をしているだけなのだということが、分かっていた。

 背中を大地につけていた。大の字になっていた。巨大な黄色みを帯びたヒールのダイアモンド型の当て物が、両脚を踏み潰すのを感じていた。グシャッ!苦痛に呻いていた。

 彼の両脚だった物質は、地中深くに埋葬されていった。頭部の背後の空間のどこかから、もうひとつの当て物が襲来した。自分の肉体がプラスティックの当て物の、ダイアモンドの模様の形通りに圧迫されていた。形を変えていくのがわかった。

 トムの身体は、ジャスミンの体重の下敷きになって……。
安らかな暗黒が訪れた。


戦争ごっこ

5・天国と地獄 了
  (終わり)






【訳者後記】
 ヘディン氏の『GOTCHA』の全訳。原題は、アメリカの子供たちが、追い駆けっこをして相手を捕まえたときに、背中を「ポン」と叩いていう言葉だそうです。「ガッチャ!」。「やった!」という感じでしょうか。

 ある別荘の裏庭の芝生。1000分の1のサイズに縮小して「サバイバル・ゲーム」をするというメインのアイデアが秀逸。自分でも試してみたくなります。普通の芝生が、ジャングルに変貌していきます。

 著者名のヘディンは、北欧神話の登場人物の名前。明らかに、主に「クラッシュ」についてのフェティシズムがある作家。しかし、ヘディンのGTSフェティシズムの領土は、遥かに広大です。徹底的な細密描写ができるまでに、想像上の世界を「見る」ことができる強大な能力があるからでしょう。

 笛地は、ジャスミンとルーシーに、青林ソマリさんのスタイルが良くて可愛いけれども、狂暴な窓香ちゃんや稟々香ちゃんという少女達に、イメージを重ねて楽しんでいます。

 この作品では、別荘の裏庭の芝生の中に、1000分の1のサイズに縮小されて、閉じこめられた男たちの恐怖が、世界のリアリティのある描写によって、克明に追体験できます。2ミリメートルにも満たない身長の彼ら。相対的に千倍のギガ・サイズになった、二人のビキニの美少女の肉体。

 圧倒的な破壊力を持って、青いゴムのビーチ=サンダルと木製のミュールが、困難な冒険の行く手に立ちはだかります。波瀾万丈。息を飲むような異様な迫力。ラブ・ストーリーの魅惑。

 ヘディンについては、笛地は彼の愛好する「mighty」という形容詞を借りて、GTSフェティシズムの「強大な作家」と呼びたいと思っています。人間達の心理ドラマも「強大な作家」の握力によって、がっしりと捕まえられています。

 「70マイルジェニー」はGTS物の名作。こちらはシュリンカー物。ヘディンの代表作でしょう。お楽しみください。

 今回は素直に、自分の初読の感動を、再現する目的で訳しました。ところどころで、少しだけ手を入れている部分があることを、お断わりしておきます。より直訳に近い文章は、機械翻訳で容易に入手できます。個人的な思い入れのある訳にも、一定の存在理由がある。そう考えています。ご寛恕をお願いしておきます。

 なお「だ・である体」の文体を採用しています。しゅりりん様のHPに投稿した、同じヘディンの『エルリコンド村物語』と比較して頂けたら幸甚です。こちらは「です・ます体」を採用しています。訳文の実験なのです。

 今回、もっとも苦労したのは、各登場人物の会話の描き分けです。それぞれの文字に書かれた話し言葉を、日本語として別な口調にして区別することが、どうしてもできませんでした。端的にいって、様々な方との英会話の経験の不足でしょう。いろいろと、ご教示頂ければと思います。

 「1」「2」と、「3」の途中までを訳して中断。残りの「3」と「4」を訳してから、また半年間の休止。今回「5」を訳して、ようやくに完成。足掛け二年がかりの訳文です。不統一がないように、全体に推敲の手を入れました。まだ、いろいろと不都合があると思います。ご指摘頂ければ、適宜、修正して行きたいと思っています。

 なお随所に残酷で暴力的な絵画的描写があります。そういう作品が嫌いな方は、読まない方が賢明でしょう。(笛地静恵)

@@@@@@@

【ホームページ管理人後記】

 こんにちは、みどうれいです。
ヘディン氏原作の『GOTCHA』の笛地静恵さんによる全訳、「戦争ごっこ」です。

 「戦争ごっこ」は青林ソマリさんのサイトに笛地さんが投稿しておられたのですが、氏のサイトが休止中のため見れなくなっています。

 私も、いくつかの海外作品を翻訳しようとしたのですが、英語が分からずに断念したことがありますので、翻訳作品には、特に思い入れがあるようです。笛地さんや、他の皆様の翻訳の苦労と情熱が分かるような気がします。

 それで、ソマリ氏のサイトが復活するまで、この作品を私のサイトに置かせてもらうように、笛地さんにお願いしました。

 「戦争ごっこ」の感想ですが、この翻訳を始めて読んだ時は、冒頭の設定に違和感がありました。トム君たちが、1/1000サイズになるのがあまりに無謀すぎると感じました。

 いくらサバイバルゲームを楽しむためとはいえ、彼らは小さくなりすぎでしょう、風が吹いたらジープごと、みんな何処かへ飛ばされます。雨が降ったら、水滴の直撃でメンバーは全滅します。(もちろん、彼らは草の陰に隠れて危険から逃れようとするでしょうけど。)

 もし、私がこの話を書くのなら、トム君たちは事故でこのサイズになったという話にしたように思います。しかし、読んでいるうちに、この話の魅力に引き込まれ、違和感がなくなってきました。

 ヘディン氏自身が、1/1000サイズの小人になって冒険をしたいと望んでいるようにも感じました。

 自らが破滅してもいいから、巨大な女性の世界に行きたいと願っている(?)ヘディン氏の作品に、敬意を表します。

 想像もしなかった展開になるのは、海外小説翻訳の醍醐味でしょうね。

 なお、文章にいくつかのコラージュを作ってみました。(私の趣味です) イメージ画像なので、文書の内容と合致していません。(汗) 今回のコラージュは、特に苦労しました。(特に青いサンダルの画像がなかった〜。)

 ジャスミンちゃんの巨体の上の、ひと時の空想の世界を楽しませていただきました。笛地静恵さん、翻訳、お疲れ様です。ありがとうございました。



目次に行く 第4章へ戻る コスモポリタンを読む

70マイルジェニーへを読む