完全なる人間 (第8章)


機械仕掛けの神・作
笛地静恵・訳


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 三月の寒気は、ゆっくりと四月の暖かい空気と、自然の約束された再生の季節に、
その座を明け渡していくようだった。


 今、四月初旬の美しく透明な空気が、室内の廊下にも到来していた。

 ジェイクの気分は、それに反比例して暗く落ち込んでいた。
彼は、彼女の部屋の外にいた。 キッチンの方に歩いていた。

 ついさっきの会話の内容を、考えていたのだった。 

 彼等は、真剣な討論をした。 


 彼は、泣いていた。 


* * *


「私は、あと三週間で、この土地を出ていくわ」
 彼女は、さも当然のことだと言うように、そういった。

 彼も、言うまでもなく、この点については承知していた。
期末試験を終えると、彼女は海外留学をする予定だった。

 戻って来たら、彼女とケイトは、ふたつのベッドルームのあるアパートメントに転居する予定だった。
ジュリーは、「チャイ・オー」の女子の寄宿舎に入る。 次の年度からは、自宅通学をする予定だった。

「私は、あなたに一緒に、ロンドンに来てもらいたいの。
これが、大きな決断だってことは、私にも分かるわ。
でも、あなたにも、一緒にいてもらいたいの」


 彼は、沈黙していた。 このような話をするための、心の準備がまったく出来ていなかった。

 彼は、混乱の極みにあった。 
(ぼ、ぼくには、分からないな。 そんなこと、できるのかなあ……。)

「そうね、慥かに長旅になるでしょうね。
でも、その旅の方法は、私が考えるわ。 面白いことになると思うのよ」


(ぼ、ぼくには、できそうにないよ……。)

「どうして? 他に、どんな方法があるのよ?
ここに留まって、ケイトとジュリーの食べ残しにすがって、生きていくつもりじゃないでしょうね?
次の秋には、みんな引っ越してしまうのよ」


(そういうことじゃないんだ、それは、何て言うか……。
この場所を、自分の家にするために、ぼくは、たいへんな苦労をしたんだ、
その場所を、そんなに簡単に、自分が捨てることが出来るのか、わからないんだ。)

「そうなの、それじゃ、あなたは、自分を愛してくれる女性と住むよりも、
昆虫のような生活の方が、お気に召すということなのね?
わたしよりも、この場所の方を、愛しているということなのね?」

 彼女の声は、怒りと絶望がないまぜになって、興奮のあまりかすれていた。 

(君は、分かっていない……。 )

「ええ、分からないわよ。 でも、どうかしら……。」

(わかっちゃいない!)
 自分の感情の爆発に、自分で驚いていた。 
(ぼくは、彼等から逃げてきたんだ、ジェイン。 命懸けで、逃げてきた。
逃亡に成功した。 どんな生活をしているにせよ、ともかく今のぼくは自由だ!
この自由を、捨てることが出来るか。 それが、分からないと言っているんだ、ジェイン!)

 長く憂欝な沈黙があった。 とうとう、彼女が口を開いた。

「分かったわ。 それがあなたの望みならば、私には、あなたを行かせることは、
できそうにないわ。 今、床に、下ろして上げるわね」


 彼女は、そう静かに言うと、耳に指を移動してきた。 

(ジェイン。 ぼくは……。 )

「やめて。 何も言わないで。
あなたが自由が欲しいのならば、それを自分のものにしていれば良いわ。
あなたが、一番愛しているのは、それなのだから」


 彼女は、出来るかぎり優しく、彼を床の上に下ろした。

 彼は、彼女を見上げた。 彼女の、恐るべき、しかし、美しい容姿を。

 自分が間違っていたと、叫びだしたい衝動を覚えていた。
彼女を愛していたし、地の果てまでも付いて行きたかった。

 しかし、内部の何かが、そうするのを妨げていた。

「言いたいことが、ふたつだけあるわ。 ジェイク」
 彼女は儀式のように、厳粛な口調で語り始めた。

「一つ目。 私は、ここを去る日まで、あなたが帰ってくるのを、待っているわ。
私にも、この決断があなたにとって、ひどく重荷であることは、分かっているのよ。
だから、時間を与えて上げたいの。
でも、もし私と一緒に暮らしたいのでなければ、もうこの部屋に戻って来ないでちょうだい。
愛しているわ。 でも、この苦痛に耐えられそうにないの」


 彼女は、深呼吸をした。 

「二つ目。 このことを思い出してね。 今でなくて、いつでも良いわ。
自由は、独立独歩と同じ意味じゃないわ、ジェイク。 あなたは、彼等から逃げてきた。
それは。 事実よ。 でも、あなたが、このアパートメントの中に、自分を幽閉してしまったら、
それは、彼等があなたにしようとしていたのと、同じ結果になってしまうのよ。
自由は、あなたが本当にそうしようとしたことを、自分で生きることだわ。
もし、あなたがしたいことの一部が、誰かにコントロールされることになったとしてもね」


 彼女は、啜り泣きながら、最後にただこう言っただけだった。

「愛してるわ」

(ぼくも、愛してるんだ。 )


 彼は、泣きながらゆっくりと、その場から立ち去ったのだった。


* * *


 それは、二週間前のことだった。 ジェインは、ここ六日間は、旅行中だった。


 彼は彼女を見守っていた。 彼女が、勉強し、また泣いているすべての時間を見つめていた。
ごく稀に、恵まれた機会には、彼が見つめるには耐えられないほどに、明るい笑顔を見せることもあった。

 彼の半身は、彼女と一緒に行くと言えと、自分を激励していた。
半身は、ここでの単独者の生活を、どのように継続すれば良いのかという、
将来の冷静な設計図を組み立てていた。

 彼は、完全に彼女に意識を集中していた。 そんな瞬間は、ごく稀であったが。
それが、稀にしか訪れない状態だというのは、安全のためには有り難いことだった。

 この時には、ケイトがキッチンに入って来たことにさえ、まったく気が付かなかった。

 ケイトは、もちろん、彼がどこにいようと、まったく気がついていない。
だから、左の素足で、彼のいる場所から、ちょうど3センチの場所を踏み付けようと、
まるっきり、無関心の態だった。

 いったい何が起こったのか。

 彼は、そのことにさえ、気が付いていなかった。
ケイトの足の裏から、圧迫された空気が噴出する力は、
彼を優に、空中五百メートルの高度にまで吹き飛ばしたのだった。

 荒々しい衝撃があった。 どこかに着地したのだ。

 めきっ。 鈍い嫌な音がした。 


* * *


 意識を取り戻した彼が、最初に気が付いたことは、一定の法則を持って、リズミックに周囲の世界が、
上下しているらしいという事態だけだった。 

 次に気が付いたのは、全身のひどい痛みだった。 
少なくとも、肋骨を三本は折っていた。 右の鎖骨には、明らかに罅が入っていた。

 頭部は、胴体から引き抜かれそうな感じだった。
十回は引き抜かれた後に、ボルトで元の場所に、無理に戻されたという感じだった。

 あのハイパーアクティヴな治癒の過程が、進行していることを感じていた。
まもなく、もっと具合が良くなるであろうことは、分かっていた。

 両眼を開いてみた。

 視野の地平線が、緑のスパンデックスの生地で占有されていることに気が付いても、
わずかに驚いたというだけのことに過ぎなかった。

 ケイトの右の乳房の上に着地していたのだ。


 スポーツブラの端にいた。


 百万に一つの確立だった。 彼にも、そう分かっていた。
事態は、はるかに悪いことになっていたかもしれないのだ。

 しかし、命綱になっている部分の狭さが、意識に重くのしかかっていた。 
いや、なって来たではないな。 彼は、苦い思いで悟っていた。

 世界は、前後に跳躍していた。 自分が、ケイトの小さくて引き締まったバストの上にいて、
ジュリーのあの巨乳の上ではないことに感謝していた。

 徒歩のペースは、ゆっくりとしたものに変化していった。 彼等は、もう家に近いところにいるのだ。

 ケイトがどこに向かっているのか、はっきりと分かっていた。

 シャワーだった。

 そうして、シャワーの滝に洗われる前に、この胸から下山していなくてはならないのは、当然のことだった。

 何とか、この宙吊の位置から、座る姿勢に移れないかと、苦心してみた。
すぐに、それは諦めるしかなかった。 それだけの動きでも痛みから回復するのに、二、三分はかかった。

 最善の策は、良い方の左手で、生地にしがみ付いていることだけだった。
それすら、大丈夫であることを祈るしかなかった。

 体力が以前と比較して、明らかに回復してきていることが、唯一の慰めだった。
ケイトがスポーツ・ブラを外すと、生地の端にしがみついているためには、体内に残ったありったけの力を必要とした。

 タオル・ラックめがけて、雄大な弧を描いて放り投げられたのだった。 
さらに、一、二分間は、そこにぶらさがっていた。

 右肩が、ようやく本来の力を取り戻していた。
体重を支えることができるようになっていった。 出来るかぎり素早く、ラックの上に登頂していた。

 この国の地形を、一望していた。 

 旧式の湯沸器が、ラックの下の壁の隅の方に置かれていた。

 もし、このラックのもう一方の端に到達できれば、簡単にそこから下山することができそうだった。
そこで休息してから、床に下るのは、造作もないことだった。 

 速やかに敏捷に行動していた。
ブラを離れ、ラックに干されているナイロンのストッキングの上の場所にまでは到着していた。

 そこに漂う体臭から、ジュリーのものであることが断言できた。
さらに、冒険の旅を敢行していった。 しかし、一つの間違いを犯した。 すぐにそうと気が付いた。

 ケイトがシャワーを終えて、タオルに手を伸ばして来た。
その過程で、不注意にも、ジュリーのストッキングに指先を触れて床に落としてしまったのだ。

 そう、これは別に、刑法の重罪に処せられるようなミスではない。
ただ彼女としては、それを摘み上げて、もとあった場所に戻せばいいだけのことだった。

 そして、彼女は一切のためらいもなく用を足していった。
ケイトには、身長5ミリメートルの男が、そこにいることなど、知るはずもなかったからだ。

 しかし、ストッキングの上で休息していた男は、それと一緒に床に落下してしまった。
ケイトは、それを元の場所に戻すときに、ストッキングの左脚の爪先部分にまで、
彼を内部に転落させていたのである。 

 ジェイクは、負傷することはなかった。
何百平方メートルもあるナイロンの生地が、クッションになっていた。

 実際に、この落下は、それほどのダメージにはいたらなかった。
しかし、タオルのラックから、優に百メートル以上下方の、柔らかい穴の底に、
囚われの身になってしまったのである。

 ともかく全身に擦り傷を負っていた。 数分間、そのままじっと動かずにいた。
ジュリーの足の臭いに、すっぽりと包まれていた。 それから、困難な登攀を再開した。 

 登山は、ゆっくりとしかできなかった。 スピード・アップは不可能だった。

 その内にジュリーが、バスルームに入って来てしまった。
セミフォーマルな、緑茶色のドレスを持っていた。 

 今日が、期末試験最終日で、しかも最後の土曜日であることを、
彼は、はっきりと思い出していた。

 「チャイ・オメガ・修了記念パーティ」は、今夜開催されるはずだった。 

 ジュリーがその機会に、ショート・スカートとロウ・カット・ドレスで、
勇猛果敢に参戦するのは、当然のことだった。

 今年度最後の、フォーマルなパーティなのだから。 

 彼女が、パンティストッキングを履いていくのは、火を見るよりも明らかであった。
あえて問題があるとすれば、パンティを履いていないという点だけだろう。 

 さらに急き立てられるようにして、上に登っていった。
ジュリーが手に取る頃には、少なくとも、内腿の半分にまで達する高度にいた。 

 必死にしがみついていた。

 数トンに達する少女の肉が、現在いる位置から引き剥がそうとして、すぐ脇を猛スピードで通過していった。



 それから、彼女はストッキングの皺を伸ばしていった。



 彼は、ぴったりと彼女の
に押し付けられていた。







 これから何が起きるのか、予想するのは不可能だった。


 彼に見えるのは、質量ともに巨大な肉とナイロンの壁だけだった。

 
彼女の右脚だろう。


 その外のものと言えば、彼の視界に入るものは僅かしかなかった。
けれども、彼女の香水と、あのメロンの芳香のするヘヤー・スプレーの匂いだけは、はっきりと分かった。 

 それほど、時間が立ってもいないのに、世界は黄昏の光に包まれていた。

 彼女が、ドレスを着たのだった。

 膝の上にスカートの裾が作る、皆既月食の半影の部分を目にすることが出来た。
優に、六十メートルは眼下の世界の消息だった。 ジュリーは、ハイヒールに足を滑らせていった。


 外世界に出陣していった。


 * * *


 彼は何トンもの肉の間に、押し潰されていた。


 できることは、何とか意識を保つことだけだった。 彼女の左脚の内腿に、磔になっていた。
ジュリーの右の脚が、しとやかにその上に重ねられていた。 

 この事態には、いくらかのアイロニーが含まれていた。
しかし、ジェイクは、今はこの情況を楽しんでいた。

 彼等はレストランにいた。
グレッグは、ジュリーのボーイフレンドとしては、それほどしばしば、
ベッドタイムをともにするような間柄ではなかったはずだ。

 しかし、今夜は、彼女を射止めたようだった。
ジュリーのいつもの行きつけの店よりも、遥かに上品で豪華な場所のようだった。

 二人の間に、それほどの身体的な接触があったわけでもない。
ジェイクはグレッグの荒々しい手が、いきなりジュリーのスカートの中に侵入し、
馴々しい動きをするのを観察していた。

 彼の心に、今夜はどんな風に事態が進展するのかというある危惧が芽生えていた。 
数分間、愛撫を我慢した後で、ジュリーは、脚を組み替えていた。

 ジェイクは、とうとうナイロンに、ほんの僅かだが、ゆとりが生じたのを感じていた。
ジュリーの脚の重大危機に、自分を上方に移動させていた。

 あそこなら、さらに、安全が確保出来そうだった。
脱出が必要となった時のために、いくらかでも出口の方に接近しておきたかったのだ。

 この頃には、晩餐の時間も終了していた。
彼は、ジュリーの狭くて長い肉の裂け目の内部に、安全に潜んでいた。 


 ダンスの時間は、そう悪い訳ではなかった。
ああ、もちろん、歓迎しているという訳でもなかった。

 しかし、彼は安定した位置にいた。
ジュリーの濡れた柔らかい唇が、充分に、破滅的な刺激を緩和してくれていた。

 ジュリーが、今夜のデートが、どんな方向に展開していくのかということについて、
何の幻想も抱いていないことは明白だった。

 彼女の興奮のレベルから判断しても、そう言えた。
数回、彼はじめじめとした唇と、グレッグの脚の間にきつく挟まれていた。
爽快な感覚だとは、とても言えなかった。


 ほんの一瞬だが、彼はこう考えていた。 
「そうだよ。 ぼくは、ジュリーといればいいじゃないか。 「チャイ・オメガ女子寮」に入るんだ。
そうすれば、二十人の魅力的な少女達が、よりどりみどりだぜ。
自分が体験したよりも、もっと遥かに多くの数のプッシーが、自分のものになるんだ」

 しかし、自分が本当は、そんなことがしたいのではないことが、はっきりと分かっていた。
今だって、自分と数ミクロンのところに、プッシーのすべてを、手に入れているじゃないか。

 しかし、彼はこんなものは、全然欲しくなかった。 

 いや、より公平を期して言えば、彼はこれも欲しかった。
でも、それは、バスに乗って来た茶色の長髪を靡かせる美少女が、財布を探して屈み込むとき、
ちらり覗くTシャツの中の胸の谷間を見たいというのと、同じ種類の欲望だった。



 しかし、本当は、そんなものも欲してはいなかった。 



 彼が、欲しいのは……。



 だが、世界がいきなり垂直になったという事実によって、憂欝な物思いから引きずり出されていた。
寄り掛かっていたジュリーの両の唇の内部に、さらに現実の尺度では数ミリメートル分だろうが挿入されていた。

 その場で態勢を立てなおそうと、足掻いていた。

 巨大で荒々しい、明らかに男性の物だと分かる指が一本、ナイロンの内部に侵入してきた。
そして、彼を凄い力で、ジュリーの奥深くに押し込んだのだった。 

 水面に向かって、上昇しようとしていた。
周囲の世界は、より湿度を高め、温度も上昇していた。

 そして。 彼はその目で、確認していた。
六十メートルの全長のある、化物のような巨大な物体が、
数百平方メートルの面積のあるゴム状の物質に包まれて、この空間に侵入してくるのを。


 ジュリーの肉体の
深淵のさらに奥へと、彼を一気に押し込んでいった。 

 意識を失いながら、一つのことだけを考えていた。 



 神よ感謝を。 あれだけは、着用してくれてるぜ。 



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完全なる人間
第8章・完



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