【超乳エイミー 訳者覚え書き・・・巨乳GTS小説試論】



笛地静恵

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 「超乳エイミー」は、作者不詳の「Amy」の全訳です。 訳出から長い間、篋底に秘めていました。
今回、みどうれい氏のHPの主旨にふさわしいと思い、紹介することにしました。

 「超乳エイミー」を、今までに、発表しなかったことには理由があります。
この作品を笛地は、おそらく翻訳として許される限度を、相当程度以上に越えて、意訳してしまいました。
あえて「超訳」とする理由です。 (シドニー・シェルダンとは無関係ですが。)

 この作品には、いくつもの短所があるのです。 途中で、エイミーからトッドに、視点が移行してしまいます。
トッドのサイズが、明らかに変化しています。 それなのに、何の断りもないのです。
初歩的なミスが、あまりにも多くて、感興を削がれてしまうのです。

 しかし、それを補ってあまりある、魅惑的な長所も明らかに存在します。
設定もエイミーの個性も、一読して忘れることができないぐらいに強力です。
 だいたい痛そうです。 もっとも痛いGTS小説だと思います。
踏み潰される苦痛は誰にも分かりませんが、エイミーの「つまはじき」の痛みは、男性ならば、ほとんど全員、
実体験から想像できることでしょう。

 笛地も、エイミーの折檻は、たぶん、小学六年生の時に、三角ベースの野球のキャッチャーをしていて、
たまたま玉にワンバウンドした球があたった、あの時の十倍も痛いのではないかと想像します。

 他にも、埋もれさせておくには、あまりにも、もったいない場面が多いのです。
魅惑的なエピソードのいくつかを、自作に使用させてもらいました。
笛地の古くからの読者の方は、ははん、あそこは、ここから借用したのかと、気が付かれると思います。

 本当は、恥ずかしいのです。 が、隠しておくのはフェアではないでしょう。 公開することにしました。
どのように活用したのか、応用力を評価していただけたらうれしいのですが。

 機械翻訳のプログラムを走らせれば、容易に逐語訳が入手できるようになった現在だからこそ、
笛地の独断と偏見に満ちた超訳の世界も、新しい別個な価値が、生まれてくるのではないかと思います。

 以下は、本当に私事になります。 「超乳エイミー」は、笛地が最初期に訳した、このジャンルの一篇です。
もう十年以上も、昔のことになるでしょうか。

 読み返していると、あるアメリカの大学の、自分の寄宿舎の古く暗い部屋の光景が浮かんで来ます。
対照的にキャンパスの明るい緑が、窓から見下ろせました。
その部屋で、借り物のIBMのコンピュータで、論文を書いていました。

 日本から持っていったエディターのプログラムを、なんとか走らせていました。
OSはMS−DOS(!)でした。
(これを仕事で使用した記憶のある方は、何人いるでしょうか。懐旧の情があります。)

 その頃でさえ、アメリカにはシュリンカー小説が、星の数ほどありました。
けれども、本格的な巨乳フェティシズムの作品は、希少だったです。

 不思議なことだと思っていました。なぜなのでしょうか。

 心理学者のジグムント・フロイドは、人間の倒錯の種類を、四つに分けています。
口唇期への倒錯があると、乳房への興味と関心が高まります。

 キャンパスには、美しい巨乳の女子学生が、傍若無人に誇り高い胸を揺らしながら、
薄着で闊歩しているのです。 日本人の平均よりも、遥かに巨大でした。

 女子学生と連れ立って歩いていても、ほとんど目線の高さにある(笛地の身長は、160センチないので)
物体の存在感に、圧倒されていました。

 魅惑的な光景でした。

 不思議な感じがしました。
GTSという巨大な女性を愛するのならば、もっと巨大な乳房を愛する小説が書かれていても、
当然のことのように思えたのです。
アメリカ人のGTSファンは、より性器期へのこだわりが、強い国民なのだろうと納得していました。

 Chelgi氏の人間ディルドテーマの作品を、集中して読んだからです。
「超乳エイミー」も最終的には、そのパターンになっていきます。
 (この疑問は、その後、「ダイアナ・ザ・ヴァリュキュリー」などの、リアルGTS物という別の世界が、
HPとして厳然として存在することが判明してから、ある程度は氷解しました。

 そこには、筋肉を増強し、乳房を膨大化し、体格も巨人化した強力な女性達が、犇めいていたからです。
しかし、ここでの観察は、その当時の筆者の意見として、そのままに書いておくことにします。)

 GTSフェティシズムと、巨乳に対するそれは、別個な性癖なのでしょうか。
巨乳を愛する方が、そのままGTSを愛するとは言えないのは、厳然たる事実でしょう。
性器期から、口唇期に幼児期を退行する心性が、必要なのかもしれないと考えています。

 つまり、赤ちゃんになって、ママのおっぱいを啣えたいのかということです。
巨乳の女性を、成人した男性の性器によって愛したいというだけでは、巨乳マニアではあっても、
GTSファンにはなれないのです。

 フロイドの二つの倒錯の視点を、一身に顕現し、自由に往復できる場合にのみ、
それは可能なのではないでしょうか。

 アメリカの(リアルGTSではないという条件付での)GTSファンで、小説を書きたいという人の中には、
この視点の自由度が不足しているのかもしれません。

 一つの仮説にすぎません。
しかし、このずれが、笛地に「超訳」を必要とさせた、根本的な理由だと考えています。


 もう一つ、作品の内容についての疑問もありました。
エイミーが、トッドを最後まで、絶対に許さなかったことです。 衝撃的でした。

 日本人ならば、どこかで、許してしまうのではないでしょうか。
エイミーの強靭な自主独立の精神は、笛地も女子学生たちとの交流の中で、実感していくことになります。
それが、『巨大女子高生地球征服記録』で、千鶴子の個性を造型するきっかけになっていきました。

 21世紀の今日でも、エイミーは日本人にとっては、好き嫌いがはっきりとするタイプの、キャラクター
だと思っています。
つまり幼児退行し、口唇期に倒錯する日本の男性には、優しいママではなくて、厳格な大人の女性として
のエイミーの性格は、やや強烈に過ぎるのではないかということです。

 ペニスを「つまはじき」によって去勢され、しかし、全身をペニスに変身させるという矛盾した存在になって
初めて、トッドは、エイミーに受け入れられるのです。


 それでは、気の強い超巨乳の女子大生エイミーと、可哀相なボーイフレンドのトッドとともに、
シュリンカー世界の恐怖と魅惑のひとときを、ごゆるりとお過ごしください。



笛地静恵拝。  




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